「秘密の花園」猪熊葉子訳

巣ごもりの合間にちょっと一息、盛岡の友だちを訪ねた。友人の部屋には信州の山の絵とバラの絵と仙台の友人の絵が飾られ、書棚には愛用の本がぎっしり入っていた。彼女は、若いときから文庫をやっていたので児童文学類の本はとんでもなくたくさん持っているのだが、その部屋にはいつもそばに置いておきたい特別な本が並べてあるのだ。

本棚の中段に詩の本が並んでいる。ときおり彼女に会いたくなるのは、文学の話と詩の話をしたくなるから。とことん込み入った話も彼女とならツーカーで楽しく話が弾む。そんな友がいることをほんとうに感謝したい。と常日頃思っているのだが、わたしのほうが一方的に彼女を頼ってばかりだと思っていたら、彼女の口からも同じ言葉がでた。「本のことを話せるひとがいて、ほんとによかったわ!」

さて、その日はもう一つ分かったことがあった。ふたりとも子どものとき一番好きだった本が「秘密の花園」F.H.バーネットだったのだ。「猪熊葉子の訳がすばらしいのよ」と言う。それで福音館書店の猪熊訳を借りてきた。超分厚いこれぞ本という重さ。ひさかたぶりに文学の匂いがぷんぷん濃厚な世界に浸る。それにくらべると今の本は省略しょうりゃくで、誰かがいっていたけど筋書きだけだなって。そうかもね、とおもう。

「こどもといっしょに読みたい詩・令和版」

お盆前に詩の本が届きました。『子どもといっしょに読みたい詩・令和版』水内喜久雄編著(PHPエディターズ・グループ)久々のアンソロジーです。

「新しい時代にも、ずっと読んでもらいたい詩—自然や人のあたたかさが伝わる100編の詩」と帯に書いてあるとおりの詩郡。山村暮鳥や草野心平や宮沢賢治、吉野弘に与謝野明子、茨木のり子、岸田えり子、川崎洋、まど・みちお、高名な詩人たちに交じって現役の詩人たちのみずみずしい詩の花束です。わたしの詩は『よいお天気の日に』から「花火」が、『リンダリンダが止まらない』から「てとあし」の2篇が載せてもらっています。「花火」は音だけで表現した詩。「てとあし」は身体感覚から湧き出た詩。ぜひぜひ、よんでくださいね!

あらためて全編読んでみると詩の奥深さに、身が引き締まります。とくにも8月というせいか、原民喜の「コレガ人間ナノデス」の詩が胸に痛いです。かなしいけど、真実の詩です。 どれか一遍・・・、やはり谷川俊太郎さんにいたしましょう。

 

誰が・・・・                  谷川俊太郎

 

誰が殺すのか?

無名の兵士を

目に見えもしない国境の上で

 

誰が造るのか?

冷たくなまぐさい銃を

子供を愛撫するその手で

 

だれが決めるのか?

正と不正とを

もっともらしい美文調で

 

みんなその誰かを探している

自分以外の誰かを――

 

 

庭仕事のあいまの本

連休前日、雪が降り、春はまだかと思っていたら、10日の間に椿が咲いて、スイセンが咲いて、桜が咲いて散って、きのうの雨で楓の木がいっせいに芽吹きはじめました。

わたしは、ひたすら庭仕事に精を出し、いちおう畑の畝もつくり、じゃがいもを植えて、ラデッシュ、白カブ、小松菜、絹さやを植えることができ、ほっと。

長い連休ではありましたが、草取りで手一杯なのでした。

けれどけれど庭の一部に芝を張り終えたので、今年の夏は草取りがちょっと軽減されるのかなあと――

あ、そう、2日前から鶯が鳴きはじめました。まだへたくそなんだけど、初鳴きです。

庭仕事の合間に知人からいただいた文庫本「日日是好日」を読みました。その前に読んだのは、こちらも友人が送ってくれた末盛千枝子さんの「根っこと翼 皇后美智子さまという存在の輝き」。どちらもとっても味わい深いエッセイなのです。人生は瞬く間ですが急ぐこともなし、競うこともなし、日々是好日です。

「走れ!三陸鉄道」歌にこめて

あっという間に3月。今年は雪がまだ積もっていません。気温も高くもう春がきたような感じ?こんなんでいいのかなと心配になります。

暖かいので、ふらっと海へ。野田の防潮堤はほど完成に近づいています。入江にちょと入ってみました。ホタテの貝殻が山のように砂浜を埋めていました。人が入れなかった年月の厚さです。8年たつんですね。

のんびりつりをしている人もちらほら。打ち寄せた貝殻の量に圧倒されます。

昨日本屋さんで、齋藤孝著の「読書する人だけがたどり着ける場所」が目について買った。夕餉の支度までの小一時間あまりで読み干す。世阿弥の話や星の王子さまがでてくる。本は人格を深めるのに役立ちます。なんて書いてある。そんな人ばかりだったらいいけど、そうでないところがまた面白いともいえる。

そうでした。先週の日曜日の朝「エフエムいわて」のラジオに三陸鉄道の中村社長さんが出演「走れ! 三陸鉄道」がながれた。おや!うまいな・・これは仙台のレクイエム・プレジェクトかな?それとも神戸? すぐにAさんから電話があり、きっと他の合唱団だねと言い合う。するとまたすぐ電話があって「あれね、北いわてだって!」「うっそー、信じられない」と驚いた。2週間前私達は上田益先生のきびしい指導のもと、特訓をかねて録音したのだ。そのときの録音だという。ほんまかいなと、びっくり。上田先生、すてきな曲をありがとう。歌う歓びをおしえてくれて、ありがとう!!友美さん、恵さん、いつも、ありがとうね!!

佐野洋子「神も仏もありませぬ」

明けまして、おめでとうございます!

正月三が日があけ、静かな暮らしがもどってまいりました。雪がそらしらと降っています。

いつもならお正月気分を味わいながら、買ったばかりの新本をむさぼり読むのだけど、今年は本棚の中から選んだ本三冊。きのうは養老孟司「養老訓」。今日は佐野洋子「神も仏もありませぬ」そして明日は河合隼雄「対話する人間」を。

12月大きな書店に行き佐野洋子の新刊を見つけ大喜びで本をめくると、ていのいい写真と、もうすでに読んだことのある文の切り貼りで、こりゃ、サギも同然じゃないかとがっかりした。中身がないのである。コピーなのである。新しい発見もわくわく感もちっともない。佐野洋子の本さえ出せば売れるという出版界の現状がちらほら。それなら本棚の本をじっくり読みなおしたほうがましやと思ったのです。

「神も仏もありませぬ」は佐野洋子が63歳のときから65歳のときまでを書いたエッセイ。2003年に出ているので当時私は51か2。初老に向き合う女の心境の切実さが今ほどには分かっていなかった。本のいたるところにズキズキと迫るものがある。たとえばこんなこと・・・

核家族に、老人は支えきれないのだ。核家族は核分裂をおこす。分裂した核は族にはもどらないのだ。とか、腹から声を出せば、口先だけの声は出なくなる。浪波節が盛んだったころ、日本人の心はこうまで荒廃していなかったのではないか。とか。日本中死ぬまで現役、現役とマスゲームをやっているような気がする。ほとんどの人間は天才でもエリートでもない。意味なく生きても人は幸せなのだ。とか。

本に新聞の切り抜きがはさんであった。佐野洋子72歳乳がんのため死去。一度だけ、ご本人を見た。谷川俊太郎と結婚したばかりの頃で盛岡で二人のトークショウがあり、佐野洋子は少女のようにういういしかった。